奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 1. 『出雲風土記』に見える最も古い横田の姿 ― 8世紀

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1. 奈良・東大寺の大仏建立より少し前(8世紀はじめ)に書かれた
『出雲国風土記』にみえる最も古い横田の姿

◆人びと

横田郷(よこたのさと)(今の鳥上・横田の地区と、八川地区の大字大谷をのぞく範囲)には、600人余りの人が住んでいた。当時1戸の住人は数人から数10入にも及ぶ大家族もあって、平均すると20〜25入くらいであった。1郷の戸数は50戸までに限られていた。社(集団=氏の守護神)の数が1社であったから、この郷には30戸くらいあったであろう。その家々は盆地周辺の丘陸地の間を流れる谷川のやゝ開けたところの谷池田(やちだ)のかたわらに、2〜3戸ぐらいずつで、郷内のあちこちに10数か所くらいあった。この郷内の男の働き手(正丁−20〜60才)は120人くらいで、その1/3が兵役義務者とされその半数の20入が、大原郡にあった熊谷(くまたに)軍団に兵士として常駐し訓練を受けた(出雲国内には意字(おう)と神門(かんど)により大きい軍団があった)。あとの100人(―戸3.3人)が稲作などに従っていた。水田は66ヘクタール(66町歩)くらいあったが、10アール(1反)当りの収穫は野生種の赤米で1.5俵余りであった。兵士は自分の糒(ほしいい)・塩などの食糧や数多い戒具(じゅうぐ)(諸道具・武器・衣服等)すべてを自弁で持参した。その上一人前の租(収穫した稲の一部)庸(よう)(労役のかわりに納める物)調(地方の産物)を国へ納める義務も負うていた。北隅(五反田の東)には正倉(租税の穀物倉庫)があった。

横田郷にはその住人たちが稲作の豊穣を祈る伊我多気社(いがたけのやしろ)(現伊賀多気神社)が1社あった。

◆出雲大川の流域

横田郷を流れる川は出雲大川(現斐伊川の古名)で、その源は伯耆(ははき)と出雲との境にある鳥上山で、横田村を流れ横田郷を西へと進み室原川をあわせ、やがて三処(みところ)郷(今の能義郡の比田地区も入る)の西南の端をよぎって三沢郷に入り、間もなく三沢郷と布勢郷の境に沿って流れていた。この川の仁多郡内の下流(大原郡木次町の温泉地区は当時は三沢郷内で、今から30年前に大原郡に移った)は漆仁川(しつにがわ)(漆仁は湯村の古名と呼ばれ、川辺には薬湯(温泉)があってヽ玉造(温泉)についでにぎわっていた。大原郷(おおはらのこおり)に入るとこの川は斐伊川と呼ばれ、下流の出雲郡(現簸川郡の東部)に入るとふたたび出雲大川と呼ばれ、西へ流れ神門の水海に入り日本海に通じていた。当時の横田盆地の平坦部は湿地で、今の町並みのある地帯は葦の生いしげる沼地であった。川には、あゆ・ます・む(う)なぎがすみ、周りの山野の草木の種類は今と同じで、そこには鷹・鳩・山鳥・雉・熊・狼・鹿・狐・猿などがすんでいた。三処郷は広くて住人も多く、2社があり(ほかに山の上に小社が2社)、布勢郷は狭くて1社、三沢郷は最も広く4社があった。社の数はそれを祖とする氏の数とぽぼ同じであったから、社の数の多いことは開拓も早く、人口も多かったことをあらわしている。大原郡は仁多郡より挟いが8郷あって、社は29社人口は4倍をこえていた。遥るかに早くから開けたところであったから、土着した古い実力のある豪族がいた。最も古いのは樋氏で樋郷(ひのさと)(氏の名を郷名とした。のち斐伊郷と改める)の開拓者で、その祖をまつる樋社(ひのやしろ)(今の斐伊神社)があり、その氏寺も建立していた。この豪族の勢力は郡内を流れる出雲大川をも桶川(のち斐伊川と改める)と呼ばしめるほどであった。ほかの豪族では勝部臣(すぐりべのおみ)(渡来人系)と額田部臣(ぬかたべのおみ)がいて、当時はともに郡司(郡の役人)をつとめ、それぞれ本堂層塔をもつ氏寺を建立していた(当時の礎石が残る)。

出雲国内の9郡には大小399の社があった。海岸沿いの平野部は渡来人の土着も早く、開拓もすゝみ人口も多く、それぞれの祖をまつる社も多かった。寺院は国司(国の役人)のいる意字郡(おうのこおり)に4、楯縫(たてぬい)郡と出雲郡には各1、神門(かんど)郡には1あった。これらの郡はいずれも平野部の早く開けた人口の多い地方であった。ところが奥地の大原郡には3か寺あって、樋郷の2か寺は僧5人と尼2人がいて、出雲でも最も大きかった。これは建立した豪族の信仰心はもとよりその財力も相当なものであったことをあらわしている。その上しばらくのち国の定めで国庁(出雲国の役所)が建立を義務づけられた、国分寺・国分尼寺の先鞭をつけたように、憎寺と尼寺があったのは大原郡だけであったことは、豪族の実力のみでなく、大和に遅れたであろうが、新文化受容への高い見識があったことを示している。このよう状況も加わって出雲大川は、中央へは大原郡内での呼称樋(ひの)川(のち斐伊(ひい)川)でもって誤まって伝えられ、『日本書紀』などの神話の中で、簸(ひの)川や肥(ひの)川とされたのである。ずっとのちの中世半ばになると中央でも出雲大川を斐伊(ひの)川と書き、いつしか古い読み方が失われて、音読して斐伊(ひい)川となり今に至ったのである。

◆このころの大和国

当時の文化水準をはかる物尺(ものさし)は仏教文化であった。仏教がわが国へ中国から朝鮮半島の国を経て公に伝ったのは、6世紀前半の538年で、『出雲国風上記』万完成するより200年も前のことで、間もなく大和国では最初の寺院である法興寺(今の飛鳥(あすか)寺)が、ついで法隆寺が建立された。一方わが国からは度々中国の隋へ、使節や留学憎・留学生か派遣され、仏教はもとより、学問や文物も持ちかえり、多くの技術者も伴って帰った。こうした情勢の下で諸王(豪)族を押さえた大和の大王(おおきみ)が中心となって、中国の制度・法律を手本として整え、国(律令国家)の基礎も固まった。新らしい文化である仏教信仰の扁とその対象である、寺院建立と仏像彫刻は地方にも波及し、建立者一族の安泰と幸福を祈る現世的な信仰は燃え上っていった。出雲国内の寺院建築もこうした潮流の中のものであった。『出雲国風土記』が完成してから8年ののち、諸国に寺院(国庁近くに国分寺・国分尼寺)を建立して、律令国家の繁栄を祈る国策的祈祷をすることを、奈良の朝廷は各国の国庁の役人に命じた。出雲国では意宇郡にあった国庁附近(遺跡あり)に僧尼両寺が建立された(遺跡あり)。そしてこれら全国の国分僧尼寺の総本山ともいうべき、奈良の東大寺の建立が仏教・道教とくに崇仏に熱心であった聖武天皇(皇后は光明)によって発願され、752年の大仏開眼によって完成した。

この大事業は働き手の庶民や資財資金を集めることにも苦労があってなかなか進まなかったため、庶民を迷わすとして退けられていた、庶民の福利事業を進めながら布教に熱心であった僧行基を、ふたたび起用しその促進をはかっか。また宇佐八幡宮(金属の神とされていた)を近くの手向山に勧請し、大陸渡来の多くの技術者の力も結集して、大仏は8 度目にやっと鋳造が実現した。


著書名
出雲の国風土記

8世紀はじめの713年諸国に編纂を命ぜられた官撰の書で、地名の由来、伝承、産物、地誌などが載るもので、出雲、常盤・播磨・豊後・肥前の5か国が残っていて、完本は733年編纂の出雲国のみである。他に30か国の逸文がある。出雲国風土記は最も自主的編纂方針で貫かれ、考古学上の発掘によってその正確さも証明され、最も評価が高く価値ある記録とされている。伝承の中の物語神話も出雲にふさわしいものである。執筆は各郡の郡司の手になったものである。

八幡信仰(上)

宇佐の豪族宇佐氏の祖をまつる農業神が、次第この地の信仰を集めていたところへ、4〜5世紀に新羅系女性シャーマン(巫祝)を中心とする辛島氏が入り、すぐれた技術によって銅山神を中心とし勢力を拡大した。やがて両神が、新羅・百済の仏数的陰陽道色彩によって統一された。6世紀大和王権は大陸情勢からこゝに応神大王の神霊をもち込んで、八幡神をこれに転換したが、神仏習合でしかも呪術性が強かった。神職は僧形をとるシャーマンであって、その託宣は大きい力をもっていた。大仏建立が強い反対にあうと、伊勢神宮やこゝえその加護を求めた。

八幡信仰(下)

宇佐八幡神は必ず成就させるとの託宣を告げたので、朝廷は急ぎ八幡神を平城京に招いた。手向山八幡宮である。その後、僧道鏡の野心に迎合し、道鏡即位の託宣を上奏したことは著名である。都が平安京に移ると、託宣によって南山城の男山に石清水八幡宮として宇佐から勧請され、王城鎮護の神として、朝廷の太祖として伊勢神宮と並び称せられた。のち源氏の氏神と仰がれ武勇の神として全国に八帽信仰はひろまり、中世以降神社信仰では最も普及し、その数は4万余の多数を誇っている。

郡 司

大化の改新で各部に置かれた地方官。国庁の国司の下で、郡内の政務を行った。郡司には大領・小領・主政・主帳があって、前2役は国造の中で清廉で政務にたえるものが、後の2役は書算に巧みなものが任ぜられた。中には土着の豪族から任命されるものもいた。それぞれの役に応じた職分田を与えられ、郡司の私邸の一部を役所にあて郡家といった。仁多・飯石ほか2郡は下部で主政を欠く3人。大原ほか3郡は中郡で4人。意字郡は上郡で6人の郡司がいた。のち荘園の発達で有名無実となった。