奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 2. 縄文・弥生・古墳の各時代の日本と奥出雲

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2. 縄文・弥生・古墳の各時代の日本と奥出雲
次つぎと北から南から渡来人が新らしい文化を持って やって来た

◆縄文文化から弥生文化ヘ

日本列島に人が住むようになったのは、2万年ほど前に海面が下って、大陸と陸続きに なった時代からで、北方や西の中国大陸、南の地方からの渡来者たちであった。約1万年 前から列島の森林環境が良くなり定住生活がし易くなったので、特に北方の寒冷な草原地 帯に住む人びとは、南へ移動する動物を追って歩いて列島へやって来た。この人びとを 縄文人といゝこの時代は約8000年間続いた。今から8000年前ころになると縄文海道によって列 島は大陸と切り離された。

このころの人びとが使った言葉は、現在の日本語「私は本を読みます」であって、中国 語や英語の語順「私は、 読む 本」とは違っていた。約4500年前の縄文中期には列島内には 30万人が住み、とくに関東・中部・東北の地方に多かった。約2300年以前の紀元前4世紀こ ろになると、縄文人より背が高く顔も面長で鼻の高い人びとが、朝鮮半島や南から島伝い にやって来た。それらは東アジアの稲作文化の伝播という大きい波と、中国の春秋時代か ら戦国時代にかけての動乱の余波をうけて渡来したもので、稲作技術と金属器(日本では 青銅器と鉄器がほとんど同時に)使用という、新らしい生活をもたらした弥生人であった。 最初の定任地は北九州や中国地方の西部であった。圧倒的に縄文人は多かったが、新ら しい文化を身につけはじめると、東へ東へとこれを伝えて弥生文化の担い手へと変身していった。 弥生文化の中心は稲作であるが、高床式住居、床を地上高くした高倉、千木・か つおぎなどの習俗、羽子板と羽根の遊び、竹馬・下駄などの風俗を伝え、さらにそれまで は動作の言葉中心であった日木語の中へ、身体語の「目」「歯」「手」「毛」や、植物関 係語の「葉」「穂」などの一音節の名詞などを加えて豊かにした。これらは中国南方から のものである。さらに南の南インド地方の生活用語の単語ももたらされて加わった。のち 古墳時代の終りごろになると、大陸との往来もはげしくなって、中国語からの借用語も大 量に入り、思想・精神にかゝわる言葉が増える一方、古代朝鮮語も技術者の持ちこむ言葉 を中心に少なからず入って来た。それらの言葉とともに、稲作を中心とする生活から生れ た考え方や信仰も、それにもとづく物語(神話の原像)ももたらされたのである。

◆弥生時代中期からクニが生れた

紀元前2世紀には、弥生文化は関東地方にまで普及し、紀元前100年(前1世紀末)ころ ―弥生中期―には、クニが形成されはじめた。この前1世紀には北九州には、中国の漢 の帝国の前漢鏡が伝わり、鉄器文化も広がった。(日本ではまだ製鉄は始まっていない) 紀元1世紀になると中国から「貨泉」という貨幣が入っているから(西日本各地の弥生遺 跡に出土)、交流が深かったことがわかる。このころの『漢書』の中には、倭人(やまとびと)(「日本 」と国号がつくのは、ずっとのちの6世紀はじめ)は分れて100余国あると書かれ、倭国(やまとのくに)と 中国の皇帝との交流をしめす記録、それを裏付ける出土品(志賀島の金印など)が多くなる。

水田耕作は特に西日本で定着し、人口は急速に増加し、集落には濠を周囲にめぐらすな どするようになり、出上品に石族鏃(せきぞく)(石の矢じり)が多くなり、集団間の戦いが西日本各地 で行われたことを想定させる。当時中国も動乱時代であった。弥生時代後期の2世紀(100年以来)末から3世紀に かけては日本列島でも、小規模ながら軍事的緊張と政治的・社会的統合が進んいた。こうした時代の遺跡が 最近発掘されている北九州佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、これらの記録とよく符号するという。このころ中国は 朝鮮半島に出兵していた。

その帯方(たいほう)郡と交渉をもっていた倭国内のクニは、30にのぼっていた。このことを誌(しる)すのが中国の史書『魏志倭人伝』(正しくは『三国志』魏志東夷倭人伝倭人条)である。30か国に分かれた大乱のあと、諸国の 首長が邪馬台(やまたい)(壱)国の年老いた女王卑弥呼(ひみこ)を共立して、その統治に服したという。 卑弥呼は神がかりで国を治める呪術師(じゅうじゅつし)(シャーマン)で、弟がその政治を助けた。 また卑弥呼は列島内の諸国に対しその権力を高めるため、当時の中国の魏の国に使いを送って後援を求めた。 魏はまた北朝鮮の高句麗や対立する中国南部の呉を牽制するねらいもこめて、邪馬台国とは度々国交を重ねて、 朝貢(貢物)を受けるかえしとして、中国の高い位や金印紫綬を与え、鏡などの珍品も下賜した。卑弥呼の 死後ふたたび倭国連合体は大乱となったが、若い女王壱与(いよ)が共立されて収まった。その後また中国 に朝貢したが、265年の記録以後の日本列島の情勢は、中国のいっさいの記録から姿をけして4世紀までは空白の 時代となる。

◆古墳時代

100余年たって5世紀になるとふたたび、「倭の五王」の記録が多くあらわれてくる。4世紀の記録はないが、 3世紀で弥生時代が終わり古墳が出現した古墳時代の初期である。 この古墳の発掘による出土品によってこの時代の歴史はある程度用らかになる。だが古墳 発掘は総数15万基といわれるものの極く少数である。今までの状況から言えることは、こ の4世紀は地域間の活溌な交渉、とくに銅と鉄の需給関係を背景として、九州・出雲・吉 備や東日本の首長間のゆるやかな連合や同盟がはじまり、倭国の各豪族集団の首長を中心 とする方向へ、向った時代とみてよいとされている。この4世紀から6世紀前半までが古 墳時代と呼ばれる時代である。記録のある5世紀に入ると倭国の各諸豪族の長は王(きみ)と呼ば れ、その諸豪族の集団の首長は大王(おおきみ)と呼ばれる。後半になると吉備・丹波・日向・越前・ 東国などは大和王権に従属し、その支配組織に組み込まれた。埼玉県行田市の稲荷山古墳 (6世紀前半築造)出土の、115文字の銘入り鉄剣(原材料の鉄は中国産)はそれを物語る ものである。この5世紀は、大和を中心に吉備などに巨大な古墳が出現する中期古墳時代 でもある。「倭の五王」の時代にもあたるが、この世紀から6世紀にかけての倭国は、前 世紀と同じく中国では南北が対立して争い、朝鮮半島では高勾麗・百済・新羅が国の統一 をめぐって抗争するという国際環境の中で歩んでいたのである。動乱を避けて朝鮮半島か ら列島に渡来する人々は、この5世紀後半から6世紀前半にかけて激増した。この中には 南朝系の中国人もふくんでいて、織物・金属加工・建築などの技術者が多かった。また百 済からは、天文暦法・医薬・仏教などの学芸に通ずる者も渡来した。それらは倭国の大王 の支配下に入って、その大王に周辺の王や地方豪族、多くの庶民に対する文化的優位性を 加える働きをした。こうしてこのころから次第にわが国の歴史は明らかになってくる。 最近発掘され今まで量的にも質的にも最高級の出土品を出して注目された奈良県の藤の 木古墳は、仏教公伝後の6世紀後半(後期古墳時代)の570年前後のもの―聖徳太子が摂 政となり斑鳩(いかるが)(中心に法隆寺がある)の王者となる前―と推定されている。またさきに彩 色の壁画が出現して、朝鮮(百済系)と中国の文化と技術が集約された古墳といわれる奈 良県の高松塚古墳は、7世紀末の古墳時代終末期のものであろうという。 このような背景には、朝鮮三国の官位割に刺戦されて大和王権の中央・地方の統治が整 備充実され、経済基盤が充実されたことがある。こうして大和王権の主・大王は畿内の有 力豪族の不安定な中で、束アジアの国際環境の影響を巧みに利用し、新らしい進路を求め ていたのである。

◆奥出雲は

こうした時代の中の奥出雲の点描をこころみると。縄文時代については、その後期(早 期・前期・中期・後期・晩期と分けて)にあたるものと思われる、土器の破片や石器が龍 の駒その他で出土している。この奥地まで少数ではあるが終末期の縄文人が遅れて北方か ら漸く入りこんでいたことがわかる。そのころ出雲の平原部ではすでに弥生時代に入って いたであろうとされる。 当地方が漸く弥生時代になったころの出土品は相当な量であるが、それらは横田盆地周 辺の丘陵地やそれに類似した地形の他地区で出土する。住居跡としては1988年に横田の中山 台地の一角の国竹遺跡が確認されている。

古墳時代の古墳としては、分類上では現在判明しているものはその後期にあたる―6 ・7世紀―もので、円墳もあるが横穴古墳が極めて多い。その中で大きいものとしては岩 屋寺山の横穴で、数多い副葬品と人骨が出土している。

縄文・弥生・古墳の各時代を通し、わが国の代表的遺跡と比べてみると、比較にならな いほど、物の質や量ともに極めて貧弱であるし、出雲地方のそれらと比べても、はるかに 劣るもので、山陽地方から移って山を越えたり、出雲の平野部から分れてたどりついた少 数のものが細々と暮し、遅れて伝わる生活文化を保持するのがやっとであったと思われ る。すでにみたように出雲国風土記の時代もそうであったが、遡のぼればさかのぼるほど 奥出雲は辺境の地であった。

大原郡には吉備地方と類似性のある特異な古墳時代前期(4世紀前代)の古墳が2基あ る。出雲最古の前方後方墳である三刀屋の松本一号墳、景初三年(239)の銘入り三角縁神 獣鏡を出した加茂の神原神社古墳である。風土記時代の大原郡の突出した特殊性は、さら に古墳時代にまでも遡ぼることが、これからも明らかになる。

ここで不思議なのは、横田八幡宮蔵の銅剣のことである。弥生時代のものとして貴重な ものであるが、全く記録がない。当社の本殿の内陣に納めてあったものである。あとで述 べるように当社には1281(弘安4)年創建以来の棟札(県指定文化財)があり、12世紀初め からの横田庄も明らかにできる資料があることなどから、創建の時にこの地で出土したと いう伝承を生んだものではあるまいか。当庄は石清水八幡宮の出雲国の8荘園のひとつで、 最も早く別宮が置かれたのは横田庄と竹矢庄である。両庄にそれぞれ鎖座する横田八幡宮 と平浜八幡宮にともに同じような細型鋼剣があるということは偶然と言ってすまされない。 そこで後世の社勢がもたらしたものとの見解もうまれる。


著書名
横田の古墳

8世紀はじめの713年諸国に編纂を命ぜられた官撰の書で、地名の由来、伝承、産物、地誌などが載るもので、出雲、常盤・播磨・豊後・肥前の5か国が残っていて、完本は733年編纂の出雲国のみである。他に30か国の逸文がある。出雲国風土記は最も自主的編纂方針で貫かれ、考古学上の発掘によってその正確さも証明され、最も評価が高く価値ある記録とされている。伝承の中の物語神話も出雲にふさわしいものである。執筆は各郡の郡司の手になったものである。

奥出雲

地域の範囲が一般的に極めてあいま いであるが、能義郡奥の比田から仁多 郡全域、そして三刀屋町域をのぞ<、 飯石郡吉田村以南を歴史研究の上では 妥当と考えている。

三角緑神獣鏡
(さんかくぶちしんじゅうきょう)

青鋼製のこの鏡は中国製とされてい たが、最近は中国の研究者からも、日 本国内での鋳造説が出されている。 東アジアの中に於ける位置づけ、考 古学上の全出土品の分布上から、さら に日本に於ける自然鋼の産出量、さら に鋳造法の科学分析的検討からすると、 国産説が有力となってきた。さらに中 国での発掘状況からみると、これは魏 鏡ではな<、むしろ魏鏡は北九州を中 心に多<出土していて、これが倭人伝 記載の100枚の鏡とみられ、邪馬台国 九州説が有利となりそうである。今後 の研究に期待したい。