奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 3. 大陸の激動をうけて歩んだ7世紀

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3. 大陸の激動をうけて歩んだ7世紀
中国に範を求め律令国家へと進み、地方組織も 整いはじめた。このころの出雲国。

◆国内の諸王(豪族)の統一ヘ

5世紀の倭の五王は、413〜478年の60余年間に、中国の宋朝に10回にわたって使を送って いる。この時代は巨大古墳時代である。これは王の支配力も高まり経済力が充実して来た ことを現わすとともに、国外に頼っていた鉄資源の一層の確保も必要となり(国内の鉄生 産開始は今のところでは6世紀末である)、国外にも眼を注ぎはじめた世紀でもあった。 朝鮮半島南部の新羅と百済を押さえ、その北部の高勾麗にも桔抗しようとするため、さら に国内の諸王(豪族)への権威も高めようと、中国との親善をばかりその冊封(中国に属 して倭国や半島地方の国王の位)もうけた時代である。

6世紀半ばになるとそれは挫折し中国との国交は杜絶する。それにひきかえ半島とは百 済との一貫する密接な関係が展開する。(百済の武寧王は日本書紀によると、築紫の島の 生れというが、今日の韓国の学者も認めている)一方倭の大王は吉備の服属についで出雲 北九州と次第に傘下に組み入れ、各地の王を国造(くにのみやつこ)とした。また半島で次第に勢力を増大し はじめていた新羅を押さえるため倭は、半島への派兵を考えた。ところが秘かに新羅と結 んでいた築紫の国造磐井は、倭軍との間に戦を交えて抵抗した。戦は磐井の敗亡となり、 倭はさらに関東・東北へと各地の王(きみ)(豪族)を従え、統一国家へと前進した。

この時の倭の大王(おおきみ)は継体であった。その死後その王位継承をめぐって大伴・蘇我の両氏 (王)の対立が激化し、全国の豪族諸王も両派に分れて複雑化していった。その後海上貿 易などを独占して実力を貯えた蘇我氏は、欽明王朝の実現を果たしその後の繁栄のもとを 築いた。この欽明王朝の時代に百済から仏教が入った。とくに西国地方の多くの豪族首長 (王)は仏教に熱心であった。それは度々朝鮮遠征にかり出されるので、自分の生還を 祈るためであって、草堂もあちこちに建てられた。このようにして素朴な原始宗教にかわ る新らしい宗教が必要となって来た。先進的であった蘇我氏は統一支配の宗教として、仏 教を入れることに力を入れはじめた。これに対し大伴氏にかわって蘇我氏と対立していた 物部氏は、祭祀をつかさどる中臣氏と結んで、これを「蕃神」として反対したが押し切ら れた。そこで物部氏らは実力行動に出たので内乱となったが、蘇我氏は縁の深い推古(女) 王朝をたて、聖徳太子を摂政として遂に実権を握るに至った。この推古王朝時代には東ア ジアの国際情勢が大きく転換した時代であった。中国では隋が南朝を倒し統一国家を形成 して、朝鮮半島と緊張しそれが倭にも及んでいたのである。これまで一世紀の間、中国と の交渉を絶っていたが、こゝに直接隋と国交をひらき文化を吸収することになった。この 時代が藤の木古墳築造の時代である。

◆古代国家への歩み

百済を経て学んだ国の体制づくりは、604年の官人の秩序の基準の十二階の冠位の創設( 官僚制の芽生え)、ついで儒教思想を基本とする法=十七条の憲法の制定による政治目標の 方向づけで整いはじめた。間もなく第1回の遣隋使として小野妹子が派遣された。この時 の国書にはじめて倭をやめて、「日出ずる処(のち「日本」とする)」とし、大王を「天子」 と呼び、5世紀の倭の五王のような冊封は求めず対等な国交を結び、文化の摂取に意欲を 燃やした(隋ではそうは考えていない)。のちふたたび妹子を隋に遣し、8人の留学生や憎 も送った。この時からはじめて「天皇」の称号を用いはじめた。そして国紀などの国史の 編纂にも手を染めはじめた。一方仏教興隆によって寺院の建立が盛んとなり、飛鳥寺など の国家的寺院のほかは、豪族がその祖をまつる氏寺が多かった。斑鳩寺(のちの法隆寺) などもそれであって、ほとんど飛鳥を中心とする地にあった。

聖徳太子の死後、間もなく舒明王朝となったが蘇我氏はさらに実権を握った。中国では 隋から唐へと王朝が変った。隋朝時代から渡っていた留学生・留学憎が続々と帰国し、新 らしい時代の思想がみなぎるとともに、唐王朝登場後の朝鮮半島の情勢も厳しくわが国に 伝った。こうした間に蘇我氏の専横に対するいきどおりも広まり、やがて中大兄皇子と中 臣鎌足らによって蘇我氏は倒され、大陸の律令制度を範とした大化の改新へと移った。

各国ぐには国司が中央から派遣され、各郡(こおり)(評)にはそれぞれ数人の郡司が置かれ、国 造などの豪族の中から任ぜられた。郡はいくつかの里に分かれていた。出雲国の国造は出 雲臣であった。国司が駐在する国庁のある意字郡の郡司には出雲臣が選ばれた。100年後の 『出雲国風土記』にみえる意字郡郡司の大領出雲臣はその子孫であろうという。

やがて遣唐使の派遣がはじまり、新らしい学問や文物が続々と入って来た。10回に及ぶ 派遣で500人を越す留学生らが学んで帰った。朝鮮半島では唐が百済を平定していたが、百 済の遣臣らは、日本に人質として来て30年になる王子を迎えて百済王とし、百済国の再興 を考えた。日本は百済が再興しそれと友好が復活すれば、朝鮮に勢力を張っている唐の脅 威にさらされることが少なくなると考えて、百済の救援におもむいた。三度にわたる派兵 にもかかわらず、白村江の戦において日本は敗退し百済は滅亡した。この時に動員された のは筑紫を中心とする四国や吉備さらに東海・関東(陸奥もという)の兵で、旧国造(郡 司級)が幹部となり軍を組織して渡った。

この結果天智天皇(中大兄皇子が王位を継いで)は、半島を押さえた唐の脅威をまとも に受けることになったので、筑紫・瀬戸内海の防備に力を注いだ。滅んだ百済や高勾麗か らはおびただしい亡命者がわが国に渡来した。貴族階級のものも多く、それらにはそれぞ れに対応する日本の官位を与えた。その数は70人にも及び、高句麗からの王族は王姓もも らった。これらの人々はもとより渡来人の多くは学芸・技術に秀いで天智王朝の近江朝廷 の文化は急速にその水準を高め、内政に大きな貢献をし、国内の制度や法律が充実してい った。戸籍もつくられ、国は全国の人民をしっかりと把握できたので、国からの地方豪族 への「役」(人民に負担させる人手)による負担は、地方へ重くのしかゝるようになった。 これが壬申(じんしん)の乱の遠因ともなった。

天智王朝の王位継承の争いは、大友皇子(弘文天皇)とその叔父大海人(おおあまの)皇子の間に起り 東国地方の不満を特っていた豪族の力を得た大海人皇子の勝利となり、天武王朝が出現(673) した。


著書名
大庭・山代古墳群

松江市の「風土記の丘」の北の茶臼 山の西北麓に、4基の大型古墳が肩を 寄せあっているのがこれで、その中心 が山代二子塚古墳である。未調査であ るが、これまでの採取資料によると、 6世紀の第2〜3四半期の出雲最大の 前方後方墳である。 意宇平野を基盤に東部出雲勢力を結 集しながら、その頂点に立った「意宇 国王」の墓であるとみられる。この付 近には8世紀後半までの古墳が時代を 追ってある。

藤ノ木古墳

昨1988年の春から本格的な調査がな された。まづ全く盗掘されたことのな い稀有のもの、巨大な石室(石棺を置 く部屋)は被葬者の高い社会的地位を しめし、朱で彩られたくリ抜きの家形 石棺も珍らしい。この石棺の横には、 わが国にも中国・朝鮮にも例をみない 金銅製馬具の鞍金具があった。その豪 華さは、古代東アジア文化の粋を集め たと言われる程である。石棺の中には 2体の人骨があり、その周辺には棺底 が見えないほどの副装品が入れられて いた。この6世紀末の人物は誰であろ うか。

出雲臣
(いずものおみ)

意宇地方の一豪族として身をおこし、 意宇の王となり、全出雲の王へと成長 し、6世紀中葉ころ大和王権の地方官 としての出雲国造となった。 のち中央から国司が派遣される時代 となると、意宇郡の郡司首席の大領を 兼任し、出雲臣の姓をうけたものと思 われるが、記録では8世紀はじめから、 筑前宗像郡の郡司とともにその歴史と 伝統を認められて特別扱いを受けた。 大原評の木簡は大化新政後間もなく 置かれたことをしめす。仁多郡はそれ より遅れたであろう。

壬申の乱

奈良時代の前、天智天皇死後、皇弟 大海人皇子(天武)と皇太子大友皇子 (弘文)の間に皇位継承をめぐって 672年壬申の年に起った内乱。乱の原 因については、@単純な継承争いA 大化の改新に反感を抱く保守派が大海 大童子を擁立したB急進的であった 天智天皇が反勧化したため、地方の中 小豪族層を中心とする進歩派が、その 貫徹のために大海大童子を推戴した C万葉前期の女流歌人額田王を争った 天智天皇と大海大童子との確執が乱の 遠因とするなどの説が、日本書紀から 読める。