奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 4. 物語の多い神話の時代

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4. 物語の多い神話の時代
『出雲国風土記』の出雲神話と、『日本書紀』の 出雲的神話の違いは、どうして生じたであろうか。

◆天武王朝の時代相

天武天皇は自分と皇后、のち皇子と近親者で最高首脳をかため、続く高級官職に一般の 皇族準皇族を配し、その下にかっての豪族をおくという独裁的皇親政治をしき、軍事力を 強化した。これは反乱によって政権についた者のとる道でもあった。そして伊勢神宮を重 視した。もともとこの官は伊勢地方の神をまつる(太陽神信仰が盛んであった)神社であ ったが、5世紀中葉以降東国経営が進んで伊勢地方がその前進基地となったから、この神 社をまつるようになった。壬申の乱の時東国の豪族を意識してこれに協力を乞い、乱後手 厚い保護を与えて、天照大神と太陽神の共通性から天皇家の氏神の社の地位を与えたので ある。そのほか乱の功臣豪族の出た地方の神社を尊ぶことによって、そこの民衆の心もと らえようとした。これらの豪族で宮廷に仕官するものも多くなったから神社信仰は高まっ た。ある意味で復古的精神のあらわれであった。独裁的傾向はこうして「大君は神にしま せば」の歌ともなって、「明つ神(あきつみかみ)」という称号が多くなる。また天皇は中国で最も偉大な る皇帝とされていた漢の高祖を範として、自ら日本に於ける高祖とも称した。すでに壬申 の乱の時には漢の高祖が秦などを破って天下をとった時に赤い旗を用いたことにならって 赤い旗を用いていた。これまでは白い色を瑞兆として重用し年号にも用いるほどで、赤い 色は好れていなかった。当時の知識人の教養は中国古典をもとにしていたから違和感もな かった。そして天皇の絶対的地位を説明するという政治目的をもって、また国家的自覚も 高めるために、天皇の祖先が遠い昔(神代として)から現在に至るまで、他の氏族に優越 するという特殊な歴史をもつことを明らかにするため、国史編纂へと進んだ。681年から (686年天皇歿)720年までの40年間の歳月をかけて『日本書紀』として完成した。

この間編纂が遅々としていたので、別に天皇の考えに基づいて同じ資料から、「偽りを 削り実を定め」て整理し、のち太安万侶が和文体でまとめ、『日本書紀』より8年早く出 されたのが、『古事記』であるという。これには神話が多く、歴史も推古朝までであるが 『日本書紀』は推古朝以後持続天皇までの100年間の歴史(当時では現代史にあたる)も詳 細に誌されている。その後『続日本紀』『続日本後記』など五部の歴史書が、同じ編纂方 針でつくられている。これらは『日本書紀』とともに国撰であり、『六国史』と呼ばれ日 本の正史となっている。

大化の改新と壬申の乱の二大政変を経ると、それまでの多数の豪族=(氏族)の間での盛衰 浮沈も甚しかったので、今までの身分序列を定めた氏姓制の役割が果せなくなった。そこ で天皇は超越した存在とし、皇族を中心とする新らしい八段階の八色姓(やくさのかばね)の制度がつくられ た。それによって中央官制も整備され中央集権体制が一層強化された。こうして好調に進 んでいたが、後継者の問題では不安が多かった。暗雲の下皇后が持続天皇としてあとを継 いだ。万葉集の歌人柿本人麻呂が生き、百済系の壁画が描かれた高松塚古墳が築造され、 新らしい都藤原京ができ薬師寺が建立された時代である。

次の文武天皇の701年に大宝律令が選定された。これにたずさわった19人は中国で学んだ 当時一流の学者や文化人で、そのうち1人は唐よりの渡来一世、7人は百済からの渡来系 氏族で占められていた。この律令によって日本の律令は完成をみ、その後数世紀にわたっ て長く政治・経済・社会のあらゆる面に影響を及ぼした。この時元号が「大宝」と定めら れ、以後絶えることなく今日に至っている。またこのころ遣唐使の派遣にあたって、始め て「日本」の国号が用いられた。

元明(女)天皇の710年、平城に遷都し平城京(奈良の都)といった。元正天皇を経て724 年、聖武天皇が即位した。このような7世紀後半から8世紀初めの東アジアの中の日本の 情勢は、『日本書紀』『古事記』の編纂の思想の中に強く反映しているのである。

◆『日本書紀』と『古事記』

『日本書紀』は中国の史書を範として、諸氏族の伝承や旧記にもとづき、空白の部分は 中国・朝鮮の史書で補い、さらに文章や語句もそのまゝ借用し、持続天皇までの歴史をま とめ漢文体で記述されている。『古事記』の編纂のことについては、その時代の歴史を誌 している、『日本書紀』や『続日本紀』など国撰の史書やその他にも全く記載がなく、『 古事記』ができたとされるより100年後の、平安時代のはじめ812(弘仁2)年の『弘仁私記』 の序文の中に見えるだけである。この書は『日本書紀』の講義の記録の1冊であり、しか もその序文に突如として書かれていることから、私記の筆者多人長(おおのひとなが)(学者であり、太(おおの)氏の 来胤ともみられる)がこの時代にまとめたとの説もある。また『古事記』そのものの序文 に疑問をもつ研究者もある。

また6世紀半ばから編纂の時代まで、常に王朝内の争乱やそれをめぐる氏族間の争いに は、百済・新羅とのかゝわりやその渡来人だちとの結びつきが多いことから、多数の百済 系の学者が加わって中国流のしかも漢文体で編纂が進められている『日本書紀』に対し、 当時の保守系の人々が新羅系の学者も加えて、同じ資料を用いて和文体でしかも宮廷女官 向きに、天武天皇の意図をより強く出して編纂したものという説もある。それは両書の記 述で、書紀は百済を古事記は新羅を、それぞれ一貫して好意的に弁護的に書いてあること からも判断できるという。

◆神話の性格

神話の中の神聖を感じさせる言葉や物語は、それを信じた当時の人々の行動のよりどこ ろとなる信仰的真実であって、権威ある言葉や物語として『日本書紀』や『古事記』に記 載されている。この他にも物語があったが編纂方針にあるように、取捨選択され体系づけ られて記述された。ここに至るまでには、5世紀の後半、6世紀の中葉、7世紀の前半と 大陸からもたらされた文字によって、たびたびその段階の情勢や人々の考えによって、体 裁や内容が整えられ筆録されて書き変えられてきている。それが7世紀末の段階で前に述 べたような国内や国際環境の下での方針によってまとめられた。したがって諸外国の神話 とくらべてその成立が10世紀から5世紀も新らしく、素朴な時代の物語ではなく、王権の 起源を語ることに力点が置かれ、大和王朝を主軸とした支配体制に対応するよう、神話が 歴史の如く整理され秩序だてられたというのは、研究者の一致した見解である。

これらの神話の原像をさぐると、日本列島に北や南や西から次つぎに渡来した人々が、 その地からもたらした物語が多い。したがってその同類は世界各地にある。それらが当時 の土俗の信仰や、渡来して来た仏教や陰陽思想、道教やさらに儒教思想ともからみあって まとめられたものであることも研究者のひとしく認めるところである。

したがって日本の神話は征服による服属物語が中心で、まつろわぬ者をまつろわせる王 権の由来をしめすものであって、民衆の物語が他国の神話とくらべて極めて少くなってい る。したがって『出雪国風土記』に書かれている民衆が伝えた出雲神話と『日本書紀』の 出雲的神話との間に、著しい違いが生じてきたといわれている。

◆スサノオとヤマタノオロチ退治

『出雲国風土記』は733(天平5)年に、出雲国の土着の豪族(王)でのち国造となり、 意宇郡の郡司大領であった出雲臣広島と、同じく出雲国の神宅臣金太理(みやいけのおみ かなたり)を責任者として完 成したものであり、各部の執筆はそれぞれの郡司(数人)が分担している。

この書の中に誌すスサノオに関する土地は、まず須佐郷(すさのさと)(神門郡、現簸川郡)で そこには須佐神社がある。ついで東方の佐世郷と海潮(うしお)郷(ともに大原郡)、 さらに東には安来(やすぎ)郷( 意宇郡、現能義郡)があって、いずれでもスサノオは平和な人として描かれている。スサ ノオを古代朝鮮語から「一番初めの祖」と解すると、稲作技術をたずさえて半島から渡米 した人(弥生人)とも考えることができる。そしてその子たちはスサノオの故地の近くや、 島根半島など5か所に足跡を残しており、その娘2人は出雲大川の河口の神門の海の周辺 で、オオナムチ(地主、大国主)と婚姻している。先住のスサノオの信仰集団と後来のオ オナムチ信仰集団との結合をしめすといわれる。須佐郷に近い飯石郡の熊谷(くまたに)郷(須佐郷の 東の山を越えた地)の谷は、クシイナタミトヨマヌラ姫が妊娠してこもった処という。

これは『日本書紀』のスサノヤツミミの女クシナダヒメにあたるであろうか。このような 出雲国に於ける伝承物語からみると、出雲大川をめぐる一中心地が中流の大原郡にあって このあたりを特にヒノ川(斐伊川)と呼んだことと重ねて考えると、古くからこの時代が 開拓されていたことが考えられてくる。したがって先に述べた風土記時代の大原郡の状況 をもたらした基盤はすでにこの時代に築かれていたとも考えられる。

スサノオの性格は『日本書紀』の数多い物語からすると、20ほどにもなる。これは半島 から列島の各地に渡来した人々が、その土地々々の事情によってさまざまな土着ぶりをし たために、それぞれの地でまつったスサノオ(一番初めの祖)の性格が、それぞれ違って いた。それらを一人の英雄スサノオにまとめて物語としたために生じたものであろう。

勇者・美女・怪物・剣を組合わせた物語・神話(ペルセウス・アンドロメダ型)は、世 界各地にある。列島各地に土着した人々のまつるスサノオが一人の人として、大和王権の 祖に征服され協力する人として、編纂方針によって構成されたものであろう。中国の。『漢 書』に誌され天武天皇がその範とした漢の高祖の話の中には、これに似た話もあり、また 中国の怪異小説集『捜神記』にはそっくりの話もある。『日本書紀』の記述には、『漢書』 のそこの文章と同じものも借用されている。これらがこの物語の原像である。

神話の中で神が降るのは、川上の清い流れにそびえる高い山ときまっている。スサノオ にまつわる話の多い出雲大川の中流のヒノ川(桶川、斐伊川)を、誤まって出雲大川の名 とし、肥の川、簸の川と呼んでこの物語の舞台に設定し、川上の鳥髪(上)の峯が浮んで 来たのである。この物語の中にはすでに土着していた龍蛇信仰.・水神信仰や殼霊信仰が影 を落しているという考え方は、出土品の考古学的考察からも認められている。しかし「水 田・洪水・治水」にまつわるとか、「先住製鉄族・砂鉄採取・銃剣」などにまつわる原像 があるとするのは誤まりで、この物語の時代(弥生時代か)はもとより、これが構成され た7〜8世紀の時代もともに、文献学上や考古学上からみて、今のところ全く関係がない。 現代的解釈のもたらした遊びにすぎない。鉄とのかゝわりの問題は「後編企業だたら」 の中で明らかになる。


著書名
漢の高祖

萬里の長城を築いたのは秦の始皇帝 である。紀元前221年に統一をなしと げ、中央集権を強化し、君主独裁の官 僚支支配体制を確立した。前206年秦 が亡ぶと、旧貴族出身の項羽が天下を 統一して漢帝国を開いた。これが漢の 高祖である(天武天皇よりも8?O年前の こと)。その後その支配体制は強化さ れ、紀元8年まで、200年の間全盛期 が続いて中国では偉大な皇帝とされて いる。紀元前後に相次いで成った「史 記」や「漢書」によって、早<からわ が国に伝えられていた。

漢 書

中国で紀元90年ごろ、班固らによっ て20年余りを費して完成した、漢の事 蹟を記した全100巻の書である。中国 では『史記』についで正史の22番目に あげられる。 この書の中に、漢の高祖の事蹟が書 かれている。

六国史(りっこくし)
(いずものおみ)

奈良・平安初頭期に編纂された6つ の国撰の史書。律令国家は完備した法 典とともに史書を求め、中国の修史の 法、編年体を範として漢文で記された。 個々の内容が古代史の根本史料であ るとともに、古代国家の性格と貴族の 世界観が読みとれる。@日本書紀30巻 A続日本紀40巻B日本後紀40巻(10 巻が現存)C続日本後紀20巻D日本 文徳天皇実録10巻E日本三代実録50 巻がある。三代実録は菅原道具もかか わったといわれ、清和・陽成・光格3 代の実録で、六国史中最も整痛してい るといわれる。

ヤマトタケ(ル)

現代の古代史学では、ヤマトタケ (ル)が架空の人物であることは立証済 みである。いくつかの物語があって、 それを原像として、国内平定の英雄と して、それを宝剣物語に結び、大和王 権の権威づけにしたものである。この 物語は5世紀後半から6世紀後半の時 代を舞台にしたもので、神話ではない が、編纂当時はもとより、伝承される 時代にも、人々が詩情豊かな理想を求 めていたことは、十分に汲みとれる。

捜神記(そうじんき)

中国で紀元350年ころ著された書で、 神を捜(さが)し求めた記録という、志 怪伝奇小説で400余の物語がある。 このころ中国では儒教が支配力を失な い、道教や新たに伝って来た仏教が、 ひろく人の心をとらえた時代である。 こうした原典をもとに、いろいろ話 をつくリ変えることを翻案という。大 江山の酒呑重子の物語も中国に原典が あり、大岡越前守の名裁判物語のほと んども、中国の話の翻案である。

熱田神宮の本殿の神体

クサナギ(どう猛な蛇)の剣とか、 ツムガリ(すべてが銅)の太刀とか、 ムラクモの剣とか呼ばれているが、古 代刀剣研究者石井昌国ほかの人々によ れば江戸時代の1660年ごろ、全社の 神官数人が見て記録したものなどから 検討してみると、各地で出土している 有柄式細型鋼剣であるという。