奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 5. 奈良・平安の時代と横田庄の出現 ― 横田の古い8氏

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5. 奈良・平安の時代と横田庄の出現
横田の古い家8氏

◆横田庄出現の時代

天武天皇の701(大宝元)年に律令が制定され(大宝律令という)ここに天皇を絶対的な権威者とする統一国家が整い、 中央・地方の官制も地方の国・郡・郷の行政組織もまとまった。 身分も良賎に分けられ、土地制度とその税制による財政制度も整い、司法制度も確立した。元明天皇の710(和則3)年 、都は平城京に遷され、東北の開拓もすすみ、九州南部の隼人も服属した。

良民はすべて戸籍にのせられ、定められた土地を所有したが(班田収授)、課税もうけさせられた。 負担は重く兵士として軍国にも勤務せねばならなかったから、その負担に耐えかねて逃亡するものや浮浪者が増加し、 憎侶になるものも多かった。そこで法を改正して土地の私有も認めざるを得なくなったので、大化の改新以来の班田収授法はやぶれ、 寺社・貴族・有力農民の開墾が急速にふえて、荘園発生の重要な原因となった。 このころ説法と救済事業で民衆の帰依をあつめたのが憎行基で、わが国最初の民衆仏教の指導者となった。

奈良の都(平城京)を中心として、唐の文化をとり入れた天平文化が盛んとなった。 漢詩・万葉集や歴史書が生れ、鎮護国家の思想によって国家の保護をうけた仏教の隆盛も加わり、 学問や美術・彫刻さらに寺院建築や工芸も普及し、華やかさも競われた。それらを支えたのは、 奈良の都の人口の半ば近くを占める大陸や半島よりの渡来系の人々であった。 この時代の畿内5か国で登録された人びとは、(815年の新撰姓氏録から)貴族1176人と雑奴(ざっこ)117人のほか、 渡来系323(漢人162・百済102・高句麗41)人であって、渡来系のほとんどは都に住んでいた。

794(延暦13)年、混沌とした奈良時代末期の気風を転換するため、桓武天皇は京都に遷都し平安京と名づけた。 平安時代のはじまりである。今までの軍国を廃して、郡司の子弟などをえらんで健児(こんでい)として軍隊の質的向上をはかった。 また前代の政治の乱れは僧侶の政治への介入が大きな原因であったので、遷都しても旧寺院は新らしい都には移さなかった。

こうしたことから最澄と空海は、奈良周辺の寺(南都六宗)の激しい攻撃をうけながらも、 都から離れた山中の比叡山や高野山で、それぞれが入唐して修めた仏教をひろめるため、延暦寺や金剛峰寺を建て革新の動きをしめした。

諸産業が発達して生産力が高まると、貴族や寺院・神社や有力農民の私有地は次第にひろがって、荘園と呼ばれるようになった。 横田庄は1156年に、京都の石清水八幡宮の荘園として文書にあらわれる。 他の文書から推定すると少なくとも1111年以前には八幡宮に属したものと思われる。 当庄は当地の豪族が所有しさらに開拓したりした幾多の名田をここに寄進し、出雲国の国衛(こくが) (役所で役人は京から下った国司)の徴税を拒否し、武士化してさらに荘園内の警察裁判権も獲得したのであった。 それ以来1590(天正18)年までの500年間、荘園領主の変遷はあったが、荘園として存続し特色ある地域を育んで来たのである。 この荘園の歴史とともに生きて今日なほ存続している、旧名家8氏について述べ、 まづこの側面から横田の歴史をふりかえり、考え学ぶことにする。

◆横田氏

郡司は次第に譜代化(代々が継ぐ)し、その子弟は平安京の衛府に出仕し、帰国すると所属した衛府を名乗りに加えることが許された。 源平合戦一の谷の戦に出雲国から平家方に馳せ参じた者に、横田兵衛尉維行(兵衛府に仕えたので兵衛尉)がいる。 西国は平家の地盤であった。この時ともに参加した者には伯耆の日野郡司義行のほか、備後・備中・美作の諸国の郡司や諸将がいた。 横田氏の祖は郡司で、恐らく維行の祖父の時代であろうか、郡司の立場を生かし時代の波に乗り、拡張した私有地とともに横田部の名田を、 伊勢神宮とともに朝廷の太祖とされていた石清水八幡宮に寄進し、一層武士化を強めていたものである。 当時は平家と院と八幡宮は特別に親密な間柄にあった。

一の谷の合戦は平家方に利あらず敗走した。その1か月後、源頼朝の重臣梶原景時は出雲石見で唯一人の源氏方であった 石見益田氏に命じて、長駆して出雲の木次氏や横田氏を討たせた。その結果は明らかではないが、横田氏は蠢動をとどめた。 ともに敗走して来た平家方の諸氏は南の備後境の坂根の山上に集結して、なおも抗抵をこころみようとしたが一蹴されてしまった。 その哀話が「平家一夜城」の名のみであるが語りつがれている。

翌1185(元暦2・寿永4・文治元)年正月、源頼朝は出雲国横田庄をはじめ9つの八幡宮神領に対して、 その地の武士によって神領の年貢徴収を停止することのないよう、下文を届けた。そして石清水八幡官の分霊を奉持して この地に下って来たのが、荘官の一人として派遣された(下級荘官「催」職(しき))、多田源氏(頼朝はこの嫡統)の一門小池氏であった。

小池氏は荘内の中村(五反田)の豪族田村氏の娘を妻とし、尾園村(現八川八幡宮の場所)に社殿を建立してまつった。 横田部の氏神は五反田の方面にあった、出雲国風土記に記載された神祇官社で、のちの延喜武登載の武内社でもあった、 伊賀多気神社であったので、あえてそれを避けたのではないだろうか。その後も田村氏は土豪として実力を保持し、 16世紀半ばに、藤が瀬城下に横田町の町づくりが始まると、その中心地に移り五反田屋と称した。 そしてこの町の氏神として、馬場村に八幡宮が移ってからさびれていた伊賀多気神社を移し(現在地)再興した。 江戸時代になると、富田城に入った出雲国最初の藩主堀尾氏は廻国の折、五反田屋に泊った。以後屋号を富田屋と改めた。 他方かつて仙洞御料所の代官であった土蒙安部氏とともに、町の南に安楽寺を再建し町づくりの一翼とした。

◆小池氏

横田庄に下って来た荘官の一人であるが、伝えによると間もなく八幡宮の放生会の祭典には幕府より代参を命ぜられた。 以来これを続け、戦国時代には大催と称して、さらに庄内の各方面の実力者ともなった。 江戸時代になると神事に関しては古格を維持し、その遺風は1887(明治20)年ころまでも維持された。 それらの記録は小池氏ならびに当地の神社寺院に多く所蔵されている。

横田庄は文永年間(1264〜1274)以降しばらく北条時宗の異母兄時輔が支配した。 その間の1281(弘安4)年、第二次の元の来冦の直前、八幡宮は尾園村より現在地の中村の馬場に移転建立された。 この地の背後の山には修現者の修業地でもあった、眞言密教寺の金巌山岩屋寺があった。 源氏の氏神であり武神として武将の信仰も厚く、神仏習合も密であった八幡宮を岩屋寺の近くに移すことは、 当時中興憎として着々寺勢を高めでいた祐円にとっては垂涎(すいえん)の的であった。 北条時輔の生母妙音尼の力も借りてそれに成功したのである。 そして祐円は奈良東大寺と八幡宮との古きゆかりをもとに、岩屋寺の開祖を行基として聖武天皇の勅願寺であったと僭称もしはじめたのである。

小池氏は2代目からはふたたび、京都から公卿などの娘を妻として迎え入れていたが、 このころからは当地方各地の豪族の娘を妻とするようになる。 これは数10年来の蓄積によって土豪としての地盤が築かれた反面、 当庄支配の在り方が変って荘官を離れるという節目でもあったであろう。 すでに貯えた実力は伝統の神事に対する古格を維持するのにも、 また庄内惣民への影響力をもつにも十分であったと思われる。 その後記録がとぎわているが、約200年後三沢氏が当庄を請所とする地頭として、 三沢郷からここに移って来た時、三沢氏は当庄の惣民の一致した承認に(惣裁判)基づいて、 大催としての古格を安堵しているから、ずっと小池氏は地位を保持していたのである。 やがて尼子氏が三沢氏の上に立って、一時この庄を支配するが、同様に小池氏を認めている。 所有田が多いばかりでなく、中村に成立していた「中村市場」にも少なからぬ権限をもち実力を保持していたのである。

戦国の群雄割拠の時代も終りに近づいた1590(天正末)年以後は、 この地を支配した毛利氏によっても小池氏は、土豪としていろいろの権限を与えられた。 江戸時代になると(杠と改姓する)、松江藩は保護を加えて続いて古格を維持させた。 放生会の祭礼にあたっては横田郷8か村の農民の頂点に位置してその奉仕をうけ、 華麗にして古式豊かな代参行列を行い祭典の執行の主座を占めた。 「大催」職が明治時代まで生き続けた姿は記録に明らかである。 その屋敷は今も、八幡宮の南方のかつての登御のための専用道路の南端にある。

◆安部氏

横田盆地の北辺の山やその麓に、西から藤が瀬城趾・伊賀多気神社・横田八幡宮・岩屋寺が点在している。 盆地の南辺に小池氏の屋敷があり、その西に安部氏の広い中世土豪座敷が幾多の面影を残し、 その中央に土居(家の廻りの土塁)とわずかの堀をのこす構えの中に家屋(100年前再建のもの)が現存する。 この地は14世紀末から安部氏が開拓したところで、15世紀初め南方の先住地八川から転居すると稲田と呼ばれた。 開拓は17世紀末中世の終りまで続いた。これにまつわる地名も多い。

14世紀の初め鎌倉幕府が滅亡すると、横田庄は後醍醐天皇によって鎌倉の鶴が岡八幡宮や、 京都の六波羅密寺の造営料所として一時寄進された。のちふたたび石清水八幡宮領に復し、 やがて北朝(持明院統)の仙洞(上皇)御所の料所にも分けられ、院(上皇の御所)の蔵人所(くらうどどころ) の役人であった安部氏(信濃源氏小笠原氏の一門)は、仙洞御料所の代官として庄内の八川に下った。 八幡宮がもとあった尾園村を含む八川と竹崎がその領内であったようである。 こうして当庄内には北朝方の武士の勢力が入るようになった。

その後、出雲国守護であった山名満幸が横田庄を横領したことによって、1391(明徳2)年明徳の乱が起った。 洛西に於ける戦いで将車足利義満の先制攻撃によって、山名氏は敗退し守護は京極氏となった。 その後間もなく、半世紀に及んだ南北両朝の対立も、両朝合体によって漸く終った。 北朝系の後小松天皇が継ぎ横田の御料所も伝領した。翌年後円融上皇(北朝)が没するとその追善のため、 一郎が皇室の菩提所泉涌寺へ寄進された。 ここで横田庄は八幡宮と御所(禁裡)と泉涌寺の三領家の下に分けられることになった。 安部氏が稲田の開柘を始めたのは、山名満幸が横田庄を横領した(10年間)ため、代官職を退いた14世紀末からである。

15世紀に入ると三沢郷地頭三沢氏は、御所の院宣をうけて横田庄を地頭請所とし、 代官を置いて3領家への貢納を続けた。土豪となった安部氏は一時武士に復して戦塵にもあい毛利氏に従って朝鮮出兵にも加わったという。 江戸時代は土豪として、こう杠(元小池)氏とともに郡内の貴種としての面目を維持した。 この近世の時代を通して歴代の当主が最も多く郡の下郡役を勤めたのは、この安部氏一門のみである。

◆三沢氏

清和源氏満快流の伊那源氏の一門飯島氏は、天龍川の伊那谷西岸の飯島の武士であった。 13世紀初めの承久の乱の時、飯島広忠は祖父飯島太郎とともに鎌倉方で参加した。 山城の宇治川の渡河戦に若武者の一団に加わって京都への急襲に成功し、後鳥羽上皇の京方は敗亡した。 その功によって宛行(あてが)われた所領に、仁多郡西部の三沢郷があった。その2代のちの惣領飯島為重の弟為長は3代となる。

明徳の乱後三沢氏は横田庄に進出し、院宣をうけてここに代官を置き、3領家への貢納を続けた。 このころすでに三沢氏は、出雲国内の国人衆(13世紀から守護・地頭、続いて新補地頭として国内に来往し、土着して成長した武士層)の最右翼の実力者として重きをなしていた。守護京極氏も出雲国内の重要問題に対しては、三沢氏ら実力ある国人衆に頼ることが多かった。三沢氏が横田庄の盆地の北西隅の高鍔山に、藤が瀬城を築いて移ったのは、1509(永正6)年である。それから15年後、昭子氏は守護京極氏の死によって守護職を得た。1531(享祿4)年藤が瀬城を攻め三沢氏を押さえてからは、急速に国内の国人衆を掌握して山陰に勢を張った。1541(天文10)年尼子氏は横田庄を直接の支配下に置き、代官5人を庄内各地に配し、3領家への貢納も続けた。

このころ中村の八幡宮の南には中村市場があって、伯耆・備中・備後に通ずる要衝にもあたりかなり栄えたようである。 かって尼子氏の兵火によって焼失した岩屋寺も、このころ中興憎快円の努力によって復興した。 その支えの中心となったのは三沢氏で、尼子氏やその家臣・三沢氏の家臣・小池安部の両氏も力となった。 その後尼子氏の衰退によってふたたび横田庄は三沢氏の請所となり、戦国期末へと続く。1589(天正17)年、 三沢氏は馬来氏そのほか国内の主要国人衆とともに毛利氏に従って安芸国に移り、関が原の役ののち萩城で毛利藩士となり、 一万石を宛行われ毛利藩一族重臣11人の末席に列した。のち毛利藩の長府支藩が置かれると家老として仕え、明治維新を迎えた。 一族には仙台伊達藩の支藩前沢藩主となったもの、鳥取藩・久留米藩に仕えたものがあり、いずれも末孫は現存している。 初代前沢藩主は藩主綱宗の奥方初子の弟である。 初子は藤が瀬城最後の城主14代為虎の一族の子孫で、縁あって伊達家に入り、 著名な伊達藩のお家騒動の渦中に於ては、幼ないわが子亀千代を護って藩主綱村に育た女丈夫であった。 その功に綱村が報いて弟宗直を支藩の藩主としたものである。

◆馬来氏

14紀末に横田庄内の仙洞御料所をめぐって起きた明徳の乱の主謀者山名満幸が、 出雲守護職を継ぐ前は、同じ山名氏の一族が14世紀半ばから、京極氏にかわって出雲や伯耆の守護となっていた。 その時代に山名氏の一門で摂津国馬来郷を領していた馬来氏綱が、横田庄の南隣の仁多郡馬木郷を領して移って来ていた。 明徳の乱中の富田城をめぐる戦には、氏綱は山名方として加わり、城下の吉田村で討死した。 また三沢4代為忠は同じく山名方で、明徳の乱の天王山であった洛西の内野合戦で討死した。 この両氏は所領が隣接し、縁組も代々にわたっていた。 15〜16世紀の大内・毛利両氏と尼子氏の対立抗争にあけくれた時代には、 出雲の国人衆の動向を支配する実力をもっていた三沢氏と一体となって、馬来氏は動き、 さらに南の中国山脈を越えた備後の国人衆の雄山内氏とは、三沢氏と同じく縁組もあって結束も固かった。

明治初年に執筆された「出雲私史」には、尼子経久の母の真木氏は仁多郡馬木村の住人としてあるが、 ここの住人土豪武士は馬来氏で系図も明らかである。真木氏は富田城に近い能義郡宇波村の馬木氏である。

馬来氏で特筆すべきことは、初代氏綱が馬木郷に入った時の安養寺3世住職は日源 (日蓮宗開祖日蓮の法孫日尊上人が諸国行脚の途次創建した寺で、日源はのちこの派の本山要法寺6世貫主となり日源上人といった)で、 氏綱は日源の信仰と学徳に信服して入信し、郡内4か寺の仏像を焼き捨て農民すべてを日蓮宗に改宗させた。その伝統は今なお続いている。 日源ののち日行・日得・日恩の3上人がここから出て、いずれも本山の貫主にもなった。

1589(天正17)年、三沢氏とともにこの地を引きあげ安芸に移ったが、6代乗綱8代孝綱は老令・病弱のため(7代は早逝) この地に残り生涯を終えた。幼少であった孝網の嫡子元貞は、外祖父に伴われて移り毛利藩士となった。 明治維新の吉田松陰の叔父玉木文之進や乃木希典はその縁者である。今日子孫は門司・名古屋ほかに現存する。

近世松江藩の9鉄師(近世企業たたらの経営者)のうち5鉄師は仁多郡内の土豪であって、このうち4鉄師は武士の末胤である。

◆杠(ゆずりは)氏

戦国争乱期の幕あけ間もない1492(文明4)年、備中国新見庄の杠城は南の大松山城主(現高梁市内)の攻撃をうけた。 味方の中から敵方へ内通するものがあって落城し、城主惟久をはじめ多数が討死した。嫡子常久は虎口を脱し馬木城主馬来3代行綱を頼って来往し、 軍学兵道を志しのち没した。2代は体弱く武芸を好まず百姓となった。3代太郎左衛門は百姓を継いたが、 1536(天文5)年馬来郷内の大馬木村の大峠で、はじめてたたらを吹いた。 家名の明らかなものでは出雲を含めて中国地方では最も古いものである(飯石郡の錦屋が古いと言われるが、 これには他家の記録が加わっている)。また法華経信仰が厚く、「八巻庵」(今の八槇寺)を建てて深めた。 その三男源八郎はこの篤信の家に育ち早くから修業し、のち本山の京都要法寺の16世貫主となった日恩上人である。 4〜5代は百姓のかたわらたたら製鉄も業としたが、松江藩の斐伊川水系における砂鉄採取禁止策によって休むことになった。 5代太郎左ヱ門の末弟を大催小池氏から養子にと乞われた時、隠居していた4代治兵衛は「杠」への改姓と「日蓮宗」への改宗を条件として出した。 小池氏はこれをのんで以来杠氏となった。7代市兵衛は1636(寛永13)年に砂鉄採取が解禁されると直ちにたたらを吹きはじめた。 1726(享保11)年松江藩は多数いた鉄師のうち、大地主層9人に操業を許し保護を加えて振興を計った。 杠氏は仁多郡に於ける先駆者として加えられ操業を続け、家産を増やし繁昌への道をたどった。 1801(享和元)年郡内諸鉄師の成長などをみて製鉄業をやめ、地主として明治維新を迎えた。 一族は当地に残るが、その直系は下関市に現存する。

◆卜蔵 (ぼくら)氏

系図によれば、河内国の楠正成の弟正氏と伯耆国の名和長年の弟太郎左衛門の娘との間に生れた勝太郎を祖とする。 南北両朝時代になり急速に山陰へ北朝の勢力が浸透すると、名和氏とその一族は九州へ移ったが、一郎は伯耆の西部に隠栖した。 勝太郎はその一人で成長すると伯耆・出雲の守護山名氏に仕えた。3代吉三郎は明徳の乱には山名方で戦い討死した。

その弟の子惣兵衛は養子となって4代を継ぎ、横田庄内竹崎村に住んだ。土着するとともに武士を捨てなかったとみえて、 三沢氏が横田庄に入るとその傘下に加わり、1474(明応3)年には備前城下で10代甚右衛門は討死した。 11代からはト蔵と改姓した。1558(永祿元)年ト蔵栄三は岩屋寺に寺領を寄進している。 居宅はト蔵氏の現住地追谷の入口に構えていた(そこには旧宅跡があり、庭園が町指定として保存されている)。 その後竹崎村の東北能義郡の十年畑村に住んだ一族が入籍し製鉄業を続けた。 そして十年畑村はト蔵氏が大正末年鉄業を廃止するまで、安来港へ鉄製品を輸送する中継地として栄えた。 9鉄師の一人であったが、田部・絲原・桜井氏とともに4鉄師として残り一斉廃業まで続いた。 戦時中その原炉は叢雲(むらくも)炉として復活し敗戦まで操業された。

◆絲(糸)原 (いとはら)氏

祖は備後国に住んでいた尼子氏の一族で、中世が終りを告げると中国山脈を越え、 たたら製鉄業も営んでいた杠氏の住む大馬木村の湯の廻に移って来た。 農業を営み半世紀を経たころ砂鉄採集のための鉄穴流しが解禁されると、たたら製鉄業にも手を染め成長して、松江藩9鉄師の1人となった。 当時は桜井氏とともに急成長した新興地主であったが、歴代当主が傑出した経営をし、松江藩の鉄行政と相まって、 奥出雲の近世企業たたらの発達の完成へ大きく貢献した。そしてともに郡内に於いて別格的地位を築き、松江藩の負託にも応えた。

7代吉三郎は二条流歌道を通して京都の公卿との交流もあり、茶道を好み美術品を愛した。 8代四郎左衛門は芭門美濃派の俳諧をよくし、この派の宗匠の来遊もうけ、出雲に於ける一中心ともなった。 和漢の典籍を多数所蔵し、美術品の収集にもつとめた。以来歴代は俳人として文人画も好み、 干利休やその流れを汲む茶人や不昧流の祖不昧の愛用した茶道具・書画等も集め、それらによる風流の道を愛した。

こうして歴代によって蒐集された美術品、交流のあった文人墨客の作品や記録、 たたら製鉄業の諸道具を中心とした資料、地主・鉄師としての経営の記録をもとに、1980(昭和55)年財団法人絲原記念館を設立し、 自宅の庭園とともに一般に公開している。

11代権造から現14代当主に至るまでは奥出雲の近代化の陣頭に立ち、功績極めて顕著である。 今日の仁多郡米・横田牛の基盤の確立、簸上鉄道の建設から国鉄への移管そして木次線全通の実現、 出雲電気株式会社(中国電力の前身)の創設、そのほか金融機関、教育施設等の設置など各方面にわたっている。


著書名
奈良の都の役人

都には貴族や役人や多くの渡来系の 学者・僧・職人が住んでいたが、 貴族や役人は奈良の廻りの畿内5か国に給地をもち、 人を使ってものを作り、現物給与の不足を補わねばならなかった。 そこで役人の半数をこえる下級役人で都に本拠を持つものは15%に過ぎず、 ほかのものは周辺から往復して勤めていた。 研究によれば、都に住む多くの渡来人や渡来大系の人は 貴人・学者・技術者等であった。

岩屋寺

横田庄内の総社として信仰を集めている 八幡宮が近くに移転すると、岩屋寺も奈良時代を追慕し、 当寺は行基が開祖で、聖武天皇の勅願寺であったと潜称しはじめた。 それはその中興僧祐円であった。 空海らによって新らしく生れた平安時代の山岳仏教は、 11世紀に入ると修験者の力持祈祷を中心とする病気の 治療などによって民衆の中に入り込みひろまった。 この流れの中で当寺は修験場にもよい場所として 創建されたものである。

一の谷城構への事

「山陰山陽四国九州に宗と聞ゆる者共… 先づ播磨国には津田の四郎高基、美作には 江見の入道豊田権頭、備前には難波次郎経遠、 同三郎経房、備中には石賀入道、多治部太郎、 新見郷司、備後国には奴賀の入道、伯耆国には 小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行、 出雲国には塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、 横田兵衛維行、福田押領使、安芸国には 源五郎兵ヱ朝房、周防国には石田源太維道、 野介太郎有朝、周防介高綱、石見国には安主大夫、 横川郡司、長門国には……」と。
(源平盛衰記)

延喜式(えんぎしき)

平安時代初期の905年に編纂がはじまリ20余年 経て完成した、当時の諸制度を知る重要史料集である。 全部現存し内容は頗る多岐にわたっている。 この神名帳には全国3132座の神社がのっている。 この神名帳に載っている神社を式内社といい、 それぞれ社格も誌されている。 また当時の儀式などについても、 くわしくのせられている。

放生会(ほうじょうかい)

仏教の殺生を禁ずる思想により、 生き物が囚われているのを解放し善根 を施す仏教の儀式。神仏混淆の時代には 神事として行われるようになり、各地の八幡社で行われた。 720(養老4)年を初見とし、平安時代に行われた 石清水八幡宮のものは名高く、今日も続いて行われている。 当地の八幡宮の放生会も近隣の国にも例を見ないといわれる祭典であった。 放生には馬を放って、その年の吉凶も占っていた。

泉涌寺(せんにゅうじ)

京都東山区の南にある真言宗泉涌寺派の本山、 空海がこの地に草庵を結び法輪寺と名付け、 のち仙遊寺と改めたが、境内に新しい清泉が涌出 したので泉涌寺と改めた。この時の月輪大師を開山とする。 大師への朝野の尊信が厚く、皇室の帰依も深くなり、 1242年の四条天皇の山陵がここに造営、以来孝明天皇まで 多くの天皇の山陵が境内に設けられ、皇室の菩提所となった。

南朝と北朝

鎌倉幕府の執権北条氏に不満をもつ、 武士や地方豪族の反幕勢力が、 王朝政治再現を理想とする大覚寺統・ 後醍醐天皇の討幕運動と結合したが、 破れて天皇は隠岐に流島となった。 北条氏はかねてから皇室内で対立していた 持明院統から光厳天皇を立てた。 その後建武中興で後醍醐天皇の新政となったが失政が多く、 吉野に遷って足利尊氏の難を避けた。 これが南朝で京都の持明院統の天皇の朝廷が北朝。 以来半世紀にわたって両朝が対立し公家と足利幕府が争った。 横田庄は北朝に傾いていた。

明徳の乱

室町時代、山名氏清は11か国の守護を兼ね 六分一殿と呼ばれ勢威甚だ盛んであった。 足利尊氏以来ともすれば反目していたので、 義満は機会を得ればこれを除かんとしていた。 1391(明徳2)年氏清は兵を挙げて、 大軍をもって京都に迫ったが、 管領細川頼之はこれを内野に防いで大いに破り、 氏清は戦死した。 これを明徳の乱といい間もなく起こった応永の乱 とともに室町幕府支配権確立の一段階をなした。 「明徳記」はその事情を明らかにしている。

三沢初子

宮城県前沢町誌によれば、三沢14代為虎の弟為基は、 兄の毛利氏への対処への不満から不和となり、 三沢氏の所領のあった近江国へ去った。 ここで美濃国大垣領主氏家氏の娘を妻とし、 その子清長は故あって浪人し江戸に出たが志を得ず病死した。 娘初子と弟は一族に養われ、初子はのち叔母紀伊に引取られた。 紀伊は家康のタト孫辰姫の侍女となり、 仙台蕩主伊達忠宗に嫁すと続いて侍女となリ初子を伴った。 ここで初子は忠宗に見込まれ、その子で藩主となった綱宗の奥方となり、 亀千代のちの綱村を生んだ。

楠正成

南北朝時代の武将。河内国の住人で後醍醐天皇の討幕運動に参加し、 建武中興が実現すると功によって河内ほか3国の守護となった。 足利尊氏の離反後一時は九州に走らせたが、 東上して来たので兵庫で迎え撃ち湊川で敗死した。

名和長利

南北朝時代の武将。伯耆国名和庄の地頭。 隠岐を脱出した後醍醐天皇をたすけ京に入り、 建武中興の一翼を荷い、伯耆・因幡の守護となった。 足利尊氏の東上を京都で迎撃し、一族とともに奮戦し討死した。

二条流の歌道

籐原定家の子為家に3子があり、 二条・京極・冷泉の3家に分立した。 定家・為家と続いて確立した歌道は、 3家分立後対立が起った。二条家は他の2家が どちらかというと進歩的であったのに対し、 保守的で穏健正雅な歌詞を重んじた。 それが江戸時代の末まで宮廷貴族の歌道の主流として続いた。 これを二条流という。 糸原吉三郎はこの派の歌道の教典である「古今伝授」 の皆伝をうけたほど、歌道を深めていた。