奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 6. 古い社・古い寺

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6. 古い社・古い寺
出雪国風土記時代からの伊賀多気社
平安時代からの岩屋寺
鎌倉時代からの横田八幡宮

◆伊賀多気神社(元の下中村=現横田字角)(もとの伊我多気社)

『出雪国風土記』(733)に神祇官社(中央の神祇官の神名帳に登録された社) として記載されているもので、当時は神祇令によって定められた祭祀を行った。 これと同じ社格の社は三沢郷に三沢社があった。郡内にはこのほかに8社あった がいずれも出雲の国庁の神名帳に登録されるのみの社で、官社に準じて祭祀を行った。 横田郷ではこの社のみで、恐らく現在の大字中村字五反田の東辺からそう遠くない ところにあったと思われる(江戸時代初期の記録には一説に今の大字大呂の鬼神神社のところとも記す)。 13世紀後半に横田八幡宮が現在地の大字中村字馬場の地に移され、 横田庄の一の宮として庄内の信仰を高めるにつれ衰微したが、 16枇紀半ば当時の下中村の藤が瀬城下に、今日の横田の町づくりが始まると、 五反田からここに移って町づくりの中心となった五反田屋の手によって、 ここの氏神として現在地角に移され再興されて今日に至る。

◆岩屋寺(元・現中村の馬場の金厳山の中腹)

平安仏教の特色のひとつ山岳修業場としてこの地に創建された。 横田八幡宮が山麓に移転再興されると、やがて神仏習合思想から その神宮寺ともなり、武土そして庶民の信仰をあつめ、 修験者の修業の場ともなり、中興僧祐円によって寺勢は大いに上り、 横田庄の一荘官も兼ねるほどであった。16世紀に入ると三沢氏が横田庄に入って その荘官となったころ、中興の傑僧快円の登場となり、 21坊100余名の備を抱える奥出雲の霊場となった。やがて三沢氏の家臣石原氏 によって弘法信仰が高まり、庶民の信仰もあつめて今日に至っている。 岩屋寺といえば弘法さんど言われるほど、近国に名を知られた。

中世の記録が多く、横田庄の解明の根本資料となっている。 中世以来奥出雲の真言宗系緒寺の中心となり、 近世では松江の千住院の住職となるものも多く、 松江藩の相談役として重きをなした。 明治時代半ばよりわが国の革新僧侶として、 教育改革も唱えて中央で活躍した雲照律師は、 若いころこの寺で修業した。今も本堂には快円が当時富田 (現広瀬)に於いて求めた仏壇などが置かれている。

◆横田八幡宮

13世紀半ばすぎ1281(弘安4)年、 第2回の元来襲の2か月前に現在地に移されて以来、 横田庄の守護神として武士や庶民の信仰の中心となった。 8月15目の放生会の祭典には、部内6か村の農民の奉仕によって 大催小池氏の登御の行列が行われ、社前の長い広場の中央仮殿に移した 神体とともに待つ、岩屋寺僧・神官と合流して本殿に到着し、 上座に大催ついで僧、下座に神官が着座して祭典を執行した。 この費用はすべて大催所有の免田からの収入でまかなわれた。 放生は行列に参加した馬を放つ行事であって、この馬の行方で稲作の豊凶も占った。 明治期半ば1890年ころまで続き、雲伯備国境地方最大の祭典であった。 弘安4年以来の棟札すべてがあり、当庄の歴史資料として貴重なものである。


著書名
稲田神社

1824(文政6)年、近くの原口村の神主足立和泉・ 隼人久重の親子が夢知らせをうけ、ヤマタノオロチ 退治の話をこの地にあて、旧社地跡の池のほとりに 宮を建立し、イナタ姫をまつったのが起りである。 昭和期(1926年から)に入ると、父が当地方出身で あった実業家小林徳一郎が信仰と愛郷心から、 10余年をかけて建立したのが現社殿である。 この地稲田の地名は15世紀の開拓で生まれたもの。

雲照律師

簸川郡の生れ、岩屋寺48代慈雲に乞われて入山修業。 のち各地の寺を経て高野山に入ったが、 僧侶の堕落をみて下山上京、修業を続ける一方、 仏教の革新と国民教育の刷新運動にも力を入れた。 講演と著述も多く、仏典の和訳のみでも100余種に及び、 外国人の仏教研究者の崇敬も厚かった。 僧侶養成学校の創立、時の学習院々長の協力を得た 「国民教育の方針」の提唱は、大きな反響を呼んだ。 晩年大僧正、民間から初の仁和寺門跡へと、 明治地代の最高峯を歩んだ。この間度々岩屋寺を訪れている。