奥出雲横田とたたら ― 目次 (高橋一郎著) 7. 鎌倉時代から南北朝時代そして明徳の乱

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7. 鎌倉時代から南北朝時代そして明徳の乱
横田庄の豊かさに魅せられた武士たち
こゝをめぐって起り、天下争いの雌雄をきめた争乱

◆13世紀執権北条氏のころ

12世紀末、源頼朝によって京都中心の貴族政治が終り、武家による鎌倉幕府が成立し、 源氏の氏神となった石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の全国の荘園は手厚い保護を受けた。 横田庄の開発領主であってそれを石清水八幡宮に寄進した、 元郡司系武士横田氏もその力を弱められた。八幡官は新らしく一人の荘官をこの地に送った。荘官「催」職の小池氏である。

全国の各国々に置かれた守護(出雲国は近江国の宇多源氏の一門佐々木高綱)、各地に移り住んだ地頭によって、 半世紀にわたる源平争乱も終りを告げた。幕府の基礎づくりを終えた頼朝が没すると、実権はその妻政子の実家北条氏へと移っていった。 これをみてふたたび貴族政治復活をねらっていた後鳥羽上皇を擁する京都方は、幕府討伐を考えた。 これを知った幕府方は直ちに兵を進めて京都に迫り、梅雨明けの宇治川渡河作戦に成功して京都方を敗り、 その所領3000余か所を没収しそれを恩賞として多くの関東武士に与えた。 こうして各地に新補地頭が置かれ、武家政治の体制は一段と整った。 これが承久の乱である。

こうした情勢をみて動き始めたのが横田庄の北方の広い地域、三処郷をもつ地頭三処氏(仁多郡の郡司で主席の大領の末孫か)であった。 三処左衛門長綱は横田庄の荘官の一人(預所職)にも任ぜられてからは、領家八幡宮への貢納品(年貢鉄あるいは年貢銭)を とかく滞納し懐を肥やし、時には乱暴もし八幡宮側に味方する岩屋時に火を放つなどし、領家と荘官預所職の地頭との争いは絶えなかった。 他の荘官の報告によって八幡宮は幕府に訴えるが、地方武士も掌握したいとしている幕府は煮え切らない対応をし続けた。

ところが、執権北条時宗の異母兄時輔が京都六波羅守護南方となり、伯耆出雲にも勢力をひろげ、 出雲では八幡宮領の竹矢郷(平浜八幡宮)・横田庄ほかを支配することになり、三処氏は三処郷内へ押さえ込まれてしまった。 元来襲によって西国地方は緊張を加え、西国の社寺に対しては「敵国降伏」の天皇の祈願文がしきりと届けられ岩屋時にも届いた。 源氏をはじめ武士の守護神として信仰をあつめる八幡宮の神宮寺として、庄内における力と信仰をあつめるため、 北条氏(時輔の母で、後室妙音尼)を動かして、八幡宮を庄内の南の尾園村から岩屋寺の山麓現在地の馬場に移したのは、 覚満のあとをついだゆう(りっしん偏に右)円であった。ゆう円は東大寺と石清水八幡宮の かってのゆかりから、岩屋寺は行基の開基した寺であり聖武天皇の勅願時でもあったとして寺格を高めることも考えた中興層であった。

◆南北朝時代

1313(正和2)年妙音尼の没後、当庄は鎌倉鶴岡八幡宮ついで京都六波羅密寺の造営料所となり、 のち内裏(皇室)御料所となった。そののち持明院統(のちの北朝)の仙洞(上皇)御所御料所となって、 その代官として安部氏が下って来た。鎌倉幕府が亡び建武の親政に復すると横田庄はふたたび石清水八幡宮に 寄進されて八幡宮領に復したが、南北朝の対立時代に入ると、修験道当山派が持明院統にくみし武家側がこれに加坦したため、 再度仙洞御料所となった。やがて足利・山名両氏が入り乱れてこの庄に触手をのばしはじめた。

一方北方の三処郷は大賞寺統(のちの南朝)に属し、建武の中興による恩賞によって鰐渕寺(簸川郡)の僧頼源がこの庄の地頭職を与えられた。 のち親政に不満をもつ武士の棟領となった足利尊氏によって親政は崩壊し、当地方でも三処郷と横田庄は南朝と北朝に分れて対立し、 岩屋寺と高田寺の争いにも発展し、武家勢力側に立つ岩屋寺によって高田寺は押さえられ、岩屋寺に服する立場に追い込まれた。

足利尊氏の勢力が安定して来るとその下にあった山名氏は、伯耆を中心として勢を拡大し横田庄に進出した。 このころ仁多郡西部三沢郷の地頭飯島氏(改姓して三沢氏)はその地盤をかため、同じく土着成長した飯石郡三刀屋の 地頭諏訪郡氏(改姓して三刀屋氏)とともに ― 両氏は新補地頭で清和源氏流の信濃源氏の同族 ― 足利方に協力した。 やがて伯耆守護山名時氏の子師義は積極的に横田庄内に働きかけ、岩屋寺も保護した。その子時義(但馬・備後・伯耆・隠岐の守護)は、 横田八幡宮の遷宮の本願ともなり、岩屋寺への寄進もしきりと続けた。そして時義の弟満幸は丹後・出雲の守護となった。 このころ横田庄の南方備後国境の馬木郷には、山名氏の一門馬来氏が地頭として来往した。 南の山一つ越えた備後国の地毘庄(庄原市周辺)には、関東武士山内氏一族が早くから地頭として来往、土着してかたい地盤を築いていた。

守護山名氏がしきりと岩屋寺・八幡宮に寄進を続けたのは、民心を握り庄内の名主層(地主)そして現地在住荘官を味方に引き入れる ことによって、それらが荘園領主(このころは仙洞御所と石清水八幡宮)と守護の双方に、秋波(色目)を送ることを絶ち切ろうとしたからである。

◆明徳の乱

このころ山名氏は「六分一殿」と呼ばれ、一門で全国の六分の一を支配するまでになっており、将軍足利満にとってはその勢力はあなどり難く、 眼の上のたんこぶであった。1390(明徳元)年義満は山名氏の嫡統時義とその叔父氏清・弟満幸とがかねてから不和であったことに目をつけ、 時義が生前将軍をないがしろにしたということを理由にして、二人に時義の子時燕・氏幸を討たせた。時燕は本拠但馬より領国であった備後にのがれた。 そしてこゝで守護として山内氏に所領を安堵(認め)して、被官(主従)関係を結んだ。討伐後、時煕の領国但馬を氏清に、氏幸の領国伯耆・隠岐を 満幸に与えたので、満幸は丹後・出雲とともに四か国を領することになり、その勢で仙洞御料所横田庄に本貫地(本領)丹後の石原庄から家臣石原氏を 差向け、これを横領してしまった。

その後仙洞上皇は度々教書を下して、その返還を求められたが応じなかった。これを知った義満は態度を変えて、先に討たせた時煕・氏幸を許し 満幸を追放しようとした。ここで満幸は三度の教書を頂けば返還すると願い出でた。勅使・院司別当中納言日野家斉と下司斉藤左衛門尉が 横田庄へ下ったが、山名方代官石原氏は地元民をそゝのかしてこれを追い払らわせたので、上皇は立腹、義満は満幸の守護職の改易(とり消し) を決定した。こゝに於いて満幸は「これは山名一族を亡ぼす計略である」と氏清と謀って兵を挙げたが、山名一族の結束は手遅れのまゝ 1391(明徳2)年12月26日両軍は京都の西の内野で激突した。

出雲・隠岐・伯耆・丹後の兵1700余騎の山名満幸方に対して、勝利の確信のなかった足利義満は、思わぬ氏清の戦死と、戦線の乱れによる 満幸の逃亡によって勝利を収めた、この時参加した三沢5代尾張守為忠は内野で討死した。

その後再起を期した満幸は伯耆に下った。たのみとしていた富田城(能義郡)にいた満幸の出雲守護代塩治駿河守も30余騎のみであった。 その上駿河守の父上郷入道は足利方に下り、駿河守も二君にまみえずと自害した。この時山名方に加った馬木郷の馬来氏綱も、富田城下吉田村で 討死した。満幸は失意のうちに削髪し、主従5人で筑紫へ逃れた。この年10月、60年に及んだ南北両朝の対立も終り、合体して北朝の後小松天皇の時代 となった。

この山名氏の横田庄横領の10年間の代官石源氏が、居を構えその砦としたのが、仙洞御料所内の八川の三笠山であったと考えられる。 この後石原氏は逃れて三沢郷の三沢氏をたより、再起して子孫がふたたび、三沢氏の代官として横田庄に入るのは、それから半世紀の後のことである。 また仙洞御所から下向した勅使が代官に追われて、九死に一生を得たという場所が、今も地名として五反田の東方に「ごよん(五位の)橋」として 残っている。


◆明徳の乱哀話

1390(明徳元)年も押し迫った10月29日、洛西内野の一隅にある八幡宮の社前に集った山名氏の若党の中で、 わけても山口・森下・旗津・鹿野・小鴨そして家喜九郎の6人は、心に誓い合うことは同じであった。 九郎が言うのには「京に上って久しい。御所様の御旗の下にあるべきなのに、主君がこれに敵対されたので今は京へ攻めのぼることになった。 勝っても負けても逆徒の汚名はうける。このうち一人でも討死したら、ほかの5人もみなともに枕をならべてあの世へ」と。 そして神前でこの志でと契り合った。その後二条大宮の合戦でほかの5人が討死したと、九郎の中間が告げて来た。 九郎はわが身の不覚と馬を駆って二条大宮へ至り、大音声とともに敵方赤松勢の真中へ割って入った。たちまち馬を斬られ九郎も5〜6か所深手を負った。 太刀を杖に「南無阿弥陀仏」と念仏して大宮へと歩むところを、山名時煕(義満方)の兵が囲んで首をはねた。その時左の髪に少し切ったあとが あったので怪しんだところ、最後まで付いていた九郎の中間が「29日に八幡宮から九郎どのが女房へ送った手紙の中へ、その鬢の髪をひとふさ切って 巻きこめて送られた」と話した。

この女房はもと姫子(貴人の娘)で東洞院(貴人)の思いものであったが、九郎と知り合ってからは四条のあたりで母とともに住んでいた。 九郎が届けた手紙には、「われが討死するとも、軽々しく我との交りを語りたもうな。それでこそ草葉の蔭で嬉しく思う」とあった。 母とみた妻は「生涯を契った仲である。さまをかえしてほかの袖による心はない。この心を伝えたい」と、自分の髪を切って19才の年の暮、 濃き墨衣にかえ、歌一首に水々しい黒髪を添え使にことづけた。

一すぢに思い切りつゝくろかみの かゝる乱れの世を嘆くかな
  これを読んだ九郎は、思い残すことはないと片身と歌を肌に守り入れて、次の日討死したという。

1520(永正17)年、尼子方の兵火によって全焼した岩屋寺の復興のため、院主として登場したのは快円である。この時38才であった。 その後20年生涯をかけて復興に努力し、本堂をはじめ21坊をことごとく完成した中興憎である。この快円こそこの横田庄に端を発して始まった 明徳の乱で討死した、家喜九郎の忘れ片身の末孫であるとは、奇しき縁にしである。乱後その子孫は生国因幡へは帰らず、流浪し主君山名氏の縁で その一族、横田庄の南馬木郷の地頭馬来氏を頼ってそこに住んだ。父は家喜藤兵衛、母は三処郷湯野(亀嵩)の佐藤彦右衛門の嫡女であった。 快円の父藤兵衛は当時尼子氏との合戦で大原郡で討死した。

この明徳の乱については、冒頭に雲州横田庄との書き出しで綴られている「明徳記」1巻にくわしい。 1巻をなすほどこの乱は、将軍義満が宿敵山名氏の勢力を削いで地位を確保した天下分けめの戦いであったことをしめしている。 奥出雲の奥・横田庄が争いの発端となるのは、そこにそれだけの値打ちがあったからである。 戦国の軍略上の要衝でもあったし、社寺の信仰の中心でもあったが、この庄の生産力も無視してはならないと思う。 次章ではそれを追求するが、資料不足のためいま一歩のところで、記述は足袋の上から足の裏を掻く悔やしさがある。


著書名
守護・地頭

1185(文治元)年、源頼朝は大江広元の献策で、源義経らの追討と平氏反乱の防止を理由に、勅許を得て諸国に守護、公領・荘園に地頭を置き、 有力御家人(直臣)を任命した。守護は行政も行いのちには国内武士も支配し荘園を侵略して勢力をのぱし、土地を占有して守護大名に成長したが、 戦国期の下剋上で多くは滅んだ。
地頭は前から置かれたが勅許によって、全国の公領荘園に東国源氏の御家人を任命した(新補地頭)。次第に職権を利用し支配を強化し、 守護の下に仕え、国人と呼ばれた。

承久の乱

1221(承久3)年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の執権北条義時討伐の軍を発したが、反撃で大敗し幕府の支配がより強くなった戦乱。 直接動機は白拍子亀菊に賜った荘園の地頭廃止を義時が拒否したことからであるが、ねらいは守護地頭の支配を通じて幕府が、軍事財政の実権を握り、 朝廷の権力を狭ぱめたのを回復することであった。近畿の武将も十分動かずすべてを失った。
3000余の所領は関東武士の新補地頭の支配下となり、皇位継承も幕府承認制となリ西国支配は六波羅探題の手へ・・・

持明院統・大覚寺統

亀山天皇を祖とする皇統の上皇(仙洞)の御所は大覚寺に置かれ、後深草天皇の子孫の皇統の仙洞御所は持明院に雇かれた。 この両統対立は皇位継承の争いに発展し、やがて幕府が干渉し、皇位は両統交替となった。亀山天皇の孫後醍後天皇は干渉を憤り、 これが建武中興へと進んだが、間もなく失敗し遂に天皇は吉野に移った。足利尊氏は持明院統の天皇をたてたので北朝と呼ばれ、 吉野の南朝と対立し内乱は60余年間続いた。講和し合体後は持明院統のみが皇位を継承した。

石原氏

石原氏は守護山名満幸の本拠地丹波国石原庄に住んでいた家臣であったが横領した横田庄の代官として下って来た。 明徳の乱後石原氏は、庄内の仙洞百姓と八幡百姓に追われ、八川の牧原にて敗れて逃げ、三沢氏を頼って客臣となってのち、 三処郷城山の南麗に居を構えた。今日なおその地を石原呼んでいる。
のち三沢氏の代官として横田庄へ返り咲いた。岩屋寺の弘法さんの寄迪者である。その後失脚し農民として大谷に住む。 郡内石原氏の宗家で、他は分流である。

年 表

587 物部氏亡ぶ

593 聖徳太子摂政

604 憲法17条

607 遣唐使(小野妹子)
  法隆寺創建

645 蘇我氏失墜
  大化の改新

663 朝鮮白村江の戦い

672 壬申の乱・天武天皇

681 歴史の編集始まる

686 持統天皇(女)

690 文武天皇
  薬師寺完成

701 行基の社会事業
  大宝律令

710 奈良に都(平城京)

720 日本書紀完成

724 聖武天皇

733 国分寺建立の令
  行基を大僧正とし
  大仏建立に参加させる。